「長続き」教の呪縛。

「長続き」教の呪縛。

そば昔、山本直純さんが「大きいことはいいことだ!」と叫んでいるチョコのCMがありました(探したらYouTubeで発見→ http://www.youtube.com/watch?v=Aubpbn0nXvA)。あの頃は「小さい家」より「大きい家」、「小さい車」より「大きい車」がもてはやされていました。でも今はその考えが毎回正しいとは限らないことを、みんな知っています。小さいことがよい場合だって存在する。

同じように「長続きしたほうがよい」という考えも、ある種の縛りになっているような気がします。

Google先生で「長続き」と検索してみると、ダイエット、恋愛、仕事、友達などの「長続きさせる秘訣や方法」が予測候補で出てきます。あと「何をやっても長続きしない」とか。「長続きしなくていい」とか「長続きさせない」という語句で検索する人は少ないようです。

でも、必ず「長続きさせなければいけない」のか??

長続きが悪いとは言いません。でも「長続きしたほうがいい」という意見と同じくらいの面積で「長く続かない事柄も存在していい、短く終わることを認めていい」という意見の居場所があってもいいのではないでしょうか。

さっき挙げた「ダイエット、恋愛、仕事、友達」も、一度手に入れた方法や事柄の中に必ず「残るもの」と「離れるもの」があります。残っても一生は続かないかもしれません。それはいけないことなのか。

ブログで言えば、ブログの読者さんや交流会で知り合った人など。仕事で言えば、一度関わったクライアントさんや自分が中心に据えてきたメニューなど。友達で言えば、小中高の友達、大学、職場での友達、趣味の友達、ママ友など。

手に入れた物や事を全部を一生長続きさせるのは無理なのはわかっているけれど、「切れたり終わったりするより長続きさせるほうが貴い」と思ってしまうとしんどくないですか。続かないことで悩むのは、たぶん「続いたほうが貴い」と思っているから。もちろん「続いたほうが良い場合」があります。が、同じくらい「そこで終わってちょうどいいもの」がある。

そう思えるようになったのは、福岡伸一さんの『生物と無生物のあいだ』『動的平衡 生命はなぜそこに宿るのか』を読んでからでした。

一番印象に残っているのは、海岸に作った「砂の城」の例えです。

遠くから見ると「ああ、砂の城がずっとあそこにあるな」と思うのですが、近くに寄ってみると砂の一粒一粒が常に入れ替わっていて、たまたま遠目で「城の形」という淀みができているにすぎない。人間も細胞レベルでは常に入れ替わっていて、ひと月後は実は「別人」になっている。止めるより流れるほうが生物や自然の理に適っているということでした。

物事もそうだなと。長続きというのは、違う言い方をすれば「同じことを繰り返している状態」です。それが良い場合もあるし、続かないほうが良い場合もある。

手放したり離れていく(相手に離れられる、も含む)状況になったからといって、あまり過度に「長続きさせなければいけなかったのに!」という負担を課さなくてもよいかもしれません。

 

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