[インタビューズ]ハーズ実験デザイン研究所 ムラタチアキさん 4/4
ハーズ実験デザイン研究所 ムラタチアキさんへのインタビュー第4回(全4回)です。
不遇から新しい世界を見つけた転換期
そこからプロダクトデザインの道へ進まれたんですね。
いや、入社してからは来る日も来る日もデザイナーのスケッチのコピー取りや検討会準備、空いた時間に課題のスケッチの練習をするだけの毎日でした。同期の連中は商品用デザインをやっていたんですが、僕は最初から「できない」というレッテルを貼られ、商品化に関係しない開発部署に配属されていました。
面接で大笑いしていた藤井さんが、これじゃ村田がダメになると思ったんでしょうね、「村田を俺にくれないか」という話になって本社でコンセプトワークをすることになりました。そのときに手がけたプランがシングルユースの家電シリーズ「ニューベーシック」です。後の「it’s」の原型になるラインです。
別々の事業部で作っている炊飯器やトースター、洗濯機、扇風機などを同じシリーズコンセプトでそろえるよう、調整するディレクションの仕事です。でも「デザインできないやつが上から指示を出している」と言われたこともあった。だから、その仕事は気に入ってはいたものの「純粋にデザインワークをやってみたい」と事業部への転属願を出していました。
そんなくすぶっている時期に、叔母の勧めで宝塚へ滝浴び修行に行ったことがあります。2月の氷が張るような夜に、白装束、裸足で山を歩いて。滝に打たれながら般若心経を唱えました。滝の動きに逆らわなければ水の中で跳ね飛ばされずに立っていられるんですね。凍えて半分意識がなくて脱力状態だっただけなんですが。
こんなに滝修業がしんどいならデザインで悩んだほうがいいや、と思うと気持ちがふっと変わりました。社内で認められないなら社外で認められればいい。これがきっかけで社外のデザインコンペに応募し始めたんです。
三洋電機の社員としてですか?
そうです。大阪産業デザインコンテストなどに、三洋電機デザインセンターの村田として出していました。最初は1982年大阪テキスタイルコンテストで3席。次の年に京都伝統産業文化コンペティションで入選、1984年大阪産業デザインコンテストはグランプリ、同年の大阪テキスタイルコンテストで2席、同年システマステーショナリーコンペで2席。こうして9個のデザインアワードを次々に受賞するので、やっと社内でも「あいつはデザインができるんじゃないか」と思ってもらえるようになった。
この頃にデザインしたオーディオが2つあって、1つは「ハーズ」っていうんです。初めての思い通りのデザインで製品を作った。この初心を忘れないように今の会社の名前にしています。
もう1つは「プロット」といいます。開発部署時代の、商品化を前提としない門外不出の開発モデル。どういうわけか大阪城ホールで開かれた第1回国際デザイン展に、これが並びました。ブース展示の準備を終えた部長が「なんでこれが並んでるんだ!」と怒ったくらいの事件でした。今でもどうして並んでいたのかは謎です。
でも基調講演に来ていたイタリアのアレッサンドロ・メンディーニさんがこれに目に留めて「ポストモダンの動きが日本にもある」と講演で紹介してくれて、そのおかげでイタリアの雑誌『DOMUS』や『MODE』、日本の『FP』や『AXIS』に載ったりしました。
そうするとあれだけボロクソに言っていた部長が「うちのセクションでやりました」とか書いているんですよね(笑)
本格的に三洋の製品をデザインし始めたのはいつからですか。
住道にあるオーディオ事業部に移ってからです。やっと企画から商品化までのラインにデザイナーとして関わることができるようになりました。この頃、会社の仕事とは別に他社の仕事も請け負っていました。
三洋電機に所属しながら他社の仕事を。
そう。たとえば大手化粧品メーカーのプレミアムグッズのデザインだとか。大阪ガスの新分野開発部が関わるファインセラミック研究所のデザイン開発もしていました。大阪のWTCコスモタワーの1階の床面は天の川のように光るんですが、あれも僕の開発したシステムを使っています。コンクリートに光ファイバーを通した光学的なテラゾー(石材の一種)ですよ。
そういったコンクリートの組成実験みたいなのをやるために、摂津市に月7000円でガレージを借りました。トタンの屋根があるだけだったので、会社から帰るときに木材を仕入れては壁を作るという日課を繰り返しました。それでも寒いのでグラスウールで覆い、二重構造にして、もらったサッシをはめて扉もつけて、床は古いフォークリフトのパレット、カーペットは15cm幅の端切れ、電気も引きました。
入口には「ハーズ コレクション」の名前をつけました。当時はデザイン仲間のたまり場になっていましたね。お金がないのでほとんど廃材でできた手作りの秘密基地みたいな感じで。
棚に水酸化ナトリウムとか硫酸銅とかいろんな薬品があるし、プリンの型枠にコンクリを入れて養生したものを並べているもんだから、怪しまれて警察に踏み込まれたことがありますよ。当時、グリコの社長誘拐事件が起きていて、監禁場所が近くだったらしいんです。
実験棟を想像すると、エジソンの子どもの頃みたいですね。
まさにその通り。エジソンみたいなことをやりたかったんですよ。だから物理に行ったというのも筋が通っているかもしれない。頭のレベルは比較にはなりませんが。
外部からの収入が三洋の給料と変わらなくなったら辞めようと思っていました。三洋で180時間残業をした月は組合から問題視されましたし、外部の仕事をしながらの生活に限界を感じ始めました。仕事のしすぎで角膜剥離を起こしてしまったのをきっかけに、辞表を出しました。
分野を自由に行き来するスタイルは、今と変わらないような気がします。
昔から「自分はこうでなければいけない」というのがありませんでした。物理をやりながら美術をやったり、三洋に行きながら化粧品のことをやっていたり。ボーダーがないからこそ今のようにソーシャルデザイン(社会問題を解決するデザイン)や大学院での教育、伝統工芸のプロデュース、講演啓蒙活動まで手がけたくなる。
デザイナーという括りは実はもっと広いんですよ。時代を作っていく人、雇用を創出したり新しい社会の仕組みを作っていく人も「デザイナー」といえます。2月から3月末まで、日本の20年後を作る有識者30人を招いて「ソーシャルデザインカンファレンス2013」を開きます。
頭の中身を自分で描いて現実のものにする。デザイニングとは色や形ではなく、「未来にどうありたいか」を描いて実行できることだと考えています。(了)
自分を囲んでいる「枠」を意識せず、新しい組み合わせで新しい価値を見つける。ムラタさんが続けてきた30年前からのスタイルに時代がやっと追いついてきたのかもしれません。準備でお忙しいなか、お話をありがとうございました。
株式会社ハーズ実験デザイン研究所
デザイン・コンソーシアム・ブランド「メタフィス」
2013年は伊勢神宮式年遷宮の年です。ムラタさん曰く、20年ごとの式年遷宮システムを定めた天武天皇も「未来を考えて実行したデザイナー」の一人。2月からのカンファレンスは2033年を意識して「日本文化を継承しながら新しい20年後をどう構築するか」を議論するそうです。交流会とドリンク付きの前売券が発売されているので、私も行ってきます。
ソーシャルデザインカンファレンス2013
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