モノを生み出す仕事005 有限会社京都サッス 笠原得良さん

第5弾は京都でステンレス加工を専門に請け負っている笠原得良さん。76歳ながら、今でも社員と一緒に現場に立つ。さまざまな金属がある中でなぜ「ステンレス」に特化したのか。その理由から聞いてみた。

笠原さん写真笠原さん解説 笠原さんは1980年にステンレスを選び、専門に加工する会社を興した。現在は100%オーダーメイド製品を次々と生み出している

ステンレスは硬いため、鉄のように熱して伸ばせない。金型プレスもできない。すべての製品は1枚のステンレス板から切り出され、溶接で形になるように組まれていく。紙と同じように、キズが許されないデリケートな素材でもある。

「45歳で独立を決めたとき、ずいぶん心配されました。周りは引退するような歳でしょう。でも独立するまで20年以上あらゆる金属の加工を経験して、ステンレス製品がこれから伸びると感じた。工場勤めを続けるより独立した方が家族のためにもなる、そう思ったんです」

笠原さんは岡山県で茅葺き屋根用の鋏を鍛造(たんぞう)する職人の家に生まれた。幼い頃から父を手伝い、鉄が持つ熱さと厳しさを知っている。だからこそ最初は金属に関わる仕事を疎ましく感じたという。

「家の仕事がどうにも嫌でね。次男だったので親も外に出るのを許してくれました。18歳のとき集団就職で京都に出てきて、しばらく繊維会社に勤めていましたよ。頼る親や友達がない環境だから、自分で頑張るしかなかった」

金属ごとに違う気を遣う

身一つで異業種に飛び込んだものの、しっくりこない。笠原さんが戻ってきたのはやはり金物の世界だった。独立までの20年は本人曰く「修行の時代」、工場勤務で鉄以外の金属も扱った。

「加工温度や性質はそれぞれ違います。鉄は300℃で加工できてもステンレスなら8000℃になるとかね。気の遣い方や手順が変わってくる。でも実家で鉄を触っていたときのクセがつい出てしまったり…。何だかんだ言っても鍛冶の経験が染みついているんでしょうね」

76歳の今も現場に立ち続ける

実は溶接で着用するマスクは、目の部分が2枚のガラス。2枚目を閉じると視界は真っ暗になる。そこまでしないと目が守れないほど強烈な閃光がステンレスから放たれるからだ。手元を決めて視界を閉じ、培った感覚を頼りに確実に溶接する。

2トンの砂に耐える砂風呂の設備や、確実に密封する抹茶のケースなど、お客さまの注文があれば何でも製品にしてきた。技術的にできないと思う前に「どうするか」を考える。その姿勢は会社の柱となり後進が引き継いだ。

経営の第一線を退いたあとも、やっぱり現場を離れられない。新しい用語や手法があれば積極的に勉強し、こだわりを持つお客さまからステンレスの可能性を教えてもらう。笠原さんの進歩はまだまだ続いている。」




かさはら・とくよし
1935年、岡山県生まれ。代々茅葺き屋根剪定用の屋根屋鋏をつくる鍛冶の家に生まれる。学校卒業後は京都で繊維の仕事に就くが、金属の面白さを見直し、工場で修行を重ねる。1980年、45歳で独立。現在は後進に経営を譲っている。

公式HP:有限会社 京都サッス http://www.kyotosus.com/
オーダーメイドキッチン.com: http://www.ordermadekitchen.com/
古都☆京都のステンレス工房@あなたサイズへプロデュース: http://ameblo.jp/ktsus-mikan03/

取材に対するご感想記事いただきました その1 その2
2011/10取材

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